今日は京都三大祭の一つ、「葵祭」。
元々平安貴族のお祭で、正式には賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の例祭として「賀茂祭」と呼ばれておりました。
葵祭の名は、祭りに参加する人々や社殿を葵と桂の葉で飾ったことから名づけられ、今日は平安装束に着飾った行列が御所から下鴨、上賀茂神社へと歩を進める「路頭の儀」が見られました。

色とりどりの平安貴族の装束に葵の葉が飾られています。

藤の花で飾った大きな牛車も進みます。

現代の京の街並に全長 1kにも及ぶ平安装束の美しい列が続いておりました。
京都国立博物館の北に隣接する地に豊臣秀吉を祀った豊国神社がございます。

ここは秀吉によって建てられた天台宗の寺院、「方広寺」の大仏殿跡地。
方広寺は今もこの神社の北隣りに位置し、豊臣家滅亡を図る家康の格好の口実となった「国家安康」「君臣豊楽」の梵鐘も現存しているそうです。
豊国神社は豊臣家滅亡後、徳川幕府によって取り壊されましたが、明治に入り再建されました。

参道を進むと国宝の唐門がそびえます。この唐門は伏見城の遺構と伝えられ、再建時に南禅寺の金地院にあったものがこちらへ移築されました。
織豊時代の豪華絢爛さを今に伝える見事な門です。
京都・東山に京都霊山護国神社という神社があります。
ここは維新を前に倒れた志士を祀るようにと、明治元年に出された明治天皇の詔によって建立された神社。

慶応3年11月15日、明治維新を前に京都・近江屋において暗殺された坂本龍馬・中岡慎太郎もここに眠っています。

向かって左が龍馬さんの墓、右が中岡さんの墓です。
今年は特に大河ドラマ「龍馬伝」も放送されているとあって、訪れる人も多いのだとか。
私が訪れた時は、ほとんどが若い男女でした^^;

夕暮れ時、二人のお墓から正面にあたる西の空に薄明光線が現れ、京都の街並みを幻想的に照らしておりました。
仁和寺は「古都京都の文化財」として他の16ヶ所の寺院等とともに「世界遺産」に登録されています。

そんな仁和寺の中でも、この金堂は国宝に指定された美しいもの。
慶長18年(1613年)に建立された旧皇居の紫宸殿を寛永年間(1624年-1644年)にこちらへ移築したのだそうです。

所々の装飾はまさに紫宸殿にふさわしい調度で宮殿建築の雅やかさを伝えます。

桜の時期には、周辺に咲く桜花とのコントラストが映えて心落ち着く風情です^^
今日は日本で46年ぶりの皆既日食。
平日なので当然お仕事^^ しかも京都地方は朝から曇り空で太陽すらほとんど見えませんでした。。。
でも、京都は80%ほど欠ける部分日食で11時5分頃がピークらしいと聞き、試しにカメラを持って外へ出てみると・・・・!!! 雲が自然のフィルターとなって太陽と月の輪郭が見えるではありませんか^^

普通に撮ってこれなら満足です^^
曇り空なのだけれど、普段より薄暗い感じがして、実際涼しかったですね。

だんだん現れてゆく太陽。

しばしの天体ショーを楽しませていただきました。
丹波・篠山古市(ふるいち)。
国道を外れて旧道に迷い込んだところで電柱の看板に目がとまりました。

赤穂義士・不破数右衛門ゆかりの寺「宗玄寺」。

不破数右衛門といえば、討ち入りに際して赤穂浪士の中でも勲功一、二を誇ったと言われる人物。
江戸城・松の廊下で刃傷事件が起こる前に播州赤穂藩を追われ浪人となっていながら、赤穂義士に加わった異色の経歴を持っています。
ここ宗玄寺には当時、数右衛門の両親と子供が身を寄せており、数右衛門は最後の別れにこの古市を訪ね、その後江戸へ戻って討ち入りに参加し本懐を遂げました。
赤穂浪士は四十七士と数が多く、日本人には特に人気があるため、思いがけない場所でその足跡に出会うことがありますね^^
室町幕府8代将軍 足利義政が、15世紀後半に京都東山に建てた別荘・東山山荘。
義政の死後、その菩提を弔うために相国寺の末寺として寺に改められた。

これのどこが銀閣寺なのか、と言われそうだけれど・・・・

銀閣(観音殿)は、現在 平成の大修理の真っ最中。完成は2010年の予定である。
このような大掛かりな修理は数十年、いや100年に一度あるかないか。

そんな姿を見られるのも貴重なことだ。
京都福知山の隣町、兵庫県丹波市にある柏原町。
江戸時代この地がかの織田信長直系の子孫によって治められていたことを知る人は少ない。

本能寺の変によって世の帰趨は大きく変貌し、天下は豊臣、徳川氏によって治められることとなる。
本能寺の変によって信長と長男の信忠は京都に斃れた。残った次男・信雄(のぶかつ)、三男・信孝も秀吉、家康の世をうまく生き延びること能わず、織田家は徐々に衰退した。
当初の丹波柏原藩は豊臣政権下の1598年に信長の弟・信包(のぶかね)が伊勢国安濃津より3万6千石をもって転封されたことに始まる。

徳川幕府の成立後も、柏原織田藩3代に渡って藩政を司るが、信包の孫・信勝が嗣子なくして亡くなったことから、1650年に幕府天領となり前期柏原藩は一旦途絶えた。
織田氏が再びこの地を治めるのは45年後のこととなる。
丹波福知山は戦国時代、明智光秀が治めておりました。善政を敷いたとのことで、今でも御霊神社として光秀が祀られています。
天正10年6月2日、明智光秀は中国地方の羽柴秀吉の加勢に赴くべく居城であった丹波亀山(現亀岡)城を出ました。しかし、中国地方へは向かわず、この老の坂(おいのさか)峠を越えて京都へ入り本能寺にあった主君織田信長へ叛旗を翻します。世に言う「本能寺の変」です。

数百年も昔の話、光秀の胸中を知ることは出来ませんが、老の坂峠はこうしてひっそりと時を刻み続けています。
丹波・綾部市奥上林。
緑広がるこの山あいには、豊かな自然とともに国宝が現存する。
君尾山(きみのおさん)光明寺二王門。

599年に聖徳太子によって開創されたとされるこの寺にはこのような立派は仁王門がそびえ立つ。
現在の門は、1253年鎌倉時代の建立。まぎれもなく「国宝」である。
そんな古き山里で作る丹波コシヒカリ
大きな国道をそれて旧街道に入ると、そこは車が2台やっとすれ違えるような細い道・・なんてこともよくある。
静けさ漂う、そんな街道の辻には「辻の立石」が立っていることもめずらしくない。

辻の立石っていうのは今で言う道路標識。
道に慣れない旅人にはなくてはならないものだった。

これは丹波で見つけた辻の立石。向かって右に「左 たしま」、左には「すぐ 京いせ」とある。
とても、「すぐ京、伊勢」の場所ではないんだけれど・・・・昔の人は健脚か??
この「すぐ」っていうのは「直」で、まっすぐ行ったら「京・伊勢」方面ってことらしい。
百数十年も辻に立ち続けているこれらの石、今ではちょっとした芸術品だ。
兵庫県豊岡市のお得意先へうかがった帰り道。
市内を流れる円山川(まるやまがわ)の東岸を走っていると、「大石りく遺髪塚」の文字が目に留まった。

大石りく(理玖 1669-1736)。
かの赤穂浪士・大石内蔵助の妻・大石主税の母にあたる方である。
この りくさん、元々但馬国豊岡藩京極家の家老・石束源五兵衛の娘で18歳のときに赤穂の大石内蔵助に嫁ぐ。
内蔵助との間に2男2女をもうけ、赤穂での平和な暮らしが続くかに思われたその時、事件が起こった。
主君の暗転は大石家にも及ぶ。主君の仇を取るつもりの内蔵助は、討ち入りの8ヶ月前に長男主税を残して妻子を離縁、りくは豊岡の実家へ帰された。

次男、長女も若くして亡くなったが、山科時代に生まれた三男の大三郎が、討ち入り後に広島浅野本家へ仕官することとなり、りくも次女るりとともに彼の地に移った。
内蔵助亡き後、彼女は髪を下ろし、遺児を立派に育て上げたという。
りくは、その後1736年に広島で亡くなり、国泰寺に葬られたが、3回忌を機に故郷豊岡の正福寺に遺髪塚が建立された。現在の墓碑は明治時代に再建されたものだという。

中央がりくの遺髪塚、向かって右に次男吉千代、左に長女くうのお墓が並んでいる。
今年は、運転免許証の更新日にあたっていて、証明写真を撮りに写真館へ。
撮影が終わり、写真が出来上がるまでのわずかな時間にふと見ると、ちょんまげ姿の若者達の記念写真が目に留まりました。
よく見てみると、なんと明治維新の志士達が四十数人集まった写真がそこに・・・

原本ではないようでしたが、坂本竜馬、西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視、高杉晋作 等々、数十人が一堂に会した奇跡のような写真でした。
しかも、みな若い。明治維新という革命は、このような若者達の行動力が巻き起こしたんですね。彼らと同年代の平成の人々は、私も含めてあまりに幼いことを痛感します。
日本人は「骨」を失ったのでしょうか・・・
さて、1865年(慶応元年)2月に撮影されたこの写真は、上野彦馬という人の手によるものだそうですが、この人物は日本写真界創成期の写真家で、坂本竜馬の有名な一葉をはじめとして、数多くの人物写真を残しているようです。
毎年12月14日は義士祭の日。

300年余り昔のこと、元赤穂藩家老 大石内蔵助率いる47名の浪士が、主君浅野内匠頭の仇である吉良上野介の屋敷に討ち入り、吉良を討ち取った。時に元禄15年12月14日深夜。
そののち、寺坂吉右衛門を除く46人の赤穂義士は主君の墓所である高輪の泉岳寺へ向かう。
討ち入りは西暦に換算すると1703年1月31日未明だが、義士祭は同じ月日である12月14日(西暦1月30日)に挙行されている。
後年、赤穂浪士の討ち入りをモチーフに時代を室町初期に設定して人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」作られた。
いじめ抜く上役、非情な最後、脱落する仲間、糊口をしのぎ耐える同志、そして大願成就。彼らの辿った道は、我々日本人のメンタリティに共鳴する出来事を多く含み、300年の長きにわたって支持されてきた。
ほんの10年、20年で世の中の考え方や思想が変わってしまうことに比べ、いかに長きにわたって語り継がれてたことであろうか。しかも、事件自身は、ほんの2年弱の出来事である。
身を捨てて信念を貫く、ということには他人を動かす大きな力があるようだ。
300年を経た現在も、彼らの墓に線香の煙が絶えることはない。

竹田城もちょうど今、紅葉の真っ盛り。

大手門側の道筋はなだらかに舗装され、赤や黄に色づいた木々に彩られて美しい光景が広がります。


登城するのにあわて、麓の観光施設へ立ち寄るのを後回しにしたのですが、時すでに遅し・・・
城から下りてくると、ちょうど閉館となったばかりでした 泣
但馬竹田城は、1440年ごろ、但馬国守護大名山名宗全によって標高353mの古城山(虎臥山)山頂に築かれたのが始まりです。その後、16世紀後半、当時の城主 赤松広秀の改修によって穴太流石積み技法による総石垣作りの城郭へと変貌しました。

赤松広秀は、その後、関が原の戦いを境に西軍から東軍へ寝返るも、後の因幡鳥取城攻めで徳川家康の勘気に触れて切腹。竹田城は廃城となります。

廃城より400年。今では野積みの石垣しか残ってはいませんが、しばしば映画のロケに使われたのも十分納得できるほど戦国の雰囲気を十分備えた山城で、一見の価値があります。

訪れたときはちょうど夕暮れ。はるか西の山に日が沈んでいきました。
兵庫県朝来市和田山町竹田。
丹波の国に隣接する但馬の国の山あいに日本100名城の一つ竹田城がそびえています。
別名「虎臥城」またの名を「天空の城」
黒澤明監督の「影武者」のロケににも使われ、その際には巨大な砦が築かれました。
紅葉も美しい季節。山頂の城跡からはどのような絶景が広がるのでしょうか。

便利なもので、途中までは車で登れます。
途中の駐車場からは二本の道筋。
ついつい、「近道」に誘われて登って行くと・・・・・!
結構キツイ階段が延々と続きます。。。

夕日が西の山へ沈むのも近い。あわてて息を切らせながら登って行くと、眼前に巨大な石垣が見えてきました。

山頂からの景色は、また明晩。
最近、丹波の山野に車を走らせていると、畑や野原のあちこちに大きなシャンデリアのような黄色い花が目に付きます。

高さは人の背丈ほど、下向きに咲く花は大きいもので4~50cmにもなります。
何という花なのか気になったもので、スタッフに聞いてみると、「エンゼルトランペット」というそうです。
たしかに、立派なトランペットです。
さて、和名があるのでしょうか。ありました「朝鮮朝顔」。
もう一つは「曼荼羅花」。
そうです、かの華岡清州の妻が自らその人体実験に献身した際に用いられた麻酔薬の原料です。
実際はこのような花だったんですねぇ。ずいぶんと昔から日本にもあったようですが、私は今年初めて気がつきました 笑
芦田総理の物語も今日で最後です。
さて、世に言う「芦田修正」とはいったいどんなものなのでしょうか。
現憲法がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の手によるものを翻訳したのは衆知の事実です。
この過程で日本政府によって若干の修正が施されました。その作業を行ったのが、芦田を委員長とする「衆議院帝国憲法改正案委員小委員会」、通称「芦田委員会」です。
GHQ案は当時としては画期的な憲法で、特に第8条(のちの9条)は、戦争の放棄と戦力の不保持を謳っておりました。
しかしながら、自衛力さえもその保有が許されないとすることに不安を覚えた芦田は、2項冒頭に「前項の目的を達するため」という一文を加えます。
この結果、日本は紛争解決の手段以外については一定の武力を保持しうるという解釈が可能となったのです。
また、このことによって日本が将来、武力を保持する可能性に気づいた連合国側は、「文民による統制」の条項を憲法に付け加えさせました。
世界史の一節として考えれば、連合国側としても足並みは一つではなく、各々自分達にとって日本をその後どのように利用していくのか、という思惑が入り乱れていたように思われます。
「芦田修正」が付け加えられたことが日本にとって良かったのか悪かったのか、私には論じるだけの識見がありません。
ただ、GHQによる占領下にあって、祖国日本の将来を真剣に考え議論を尽くした人々の中に郷土の先達がおられたことは誇りにしてもよいと思っています。

芦田均 元首相は、1887年(明治20年)京都府福知山市に生まれ、1904年(明治37年)旧制一高入学後、1907年(明治40年)東京帝国大学法学部仏法科へ。卒業後、外務省を経て、1932年(昭和7年)衆議院議員。戦後は1946年(昭和21年)自由党から出馬し当選。憲法改正特別委員会委員長に就任されました。首相就任は1948年(昭和23年)です。
1904年(明治37年)、福知山から東京に行くには汽車でまる一日かかったと思われ、当時東京の大学に行くということは、今でいう外国留学をはるかに越える行動であり、その志の大きさが伝わってきます。
彼は、外交官として、また厚生、外務、首相と華々しいポストを歴任されていますが、特筆すべきは衆議院帝国憲法改正案委員小委員会の委員長として現憲法の制定に深く関わったことです。
中でも、現在でも何かと騒がれている9条については、GHQ案に対し、彼によって修正が加えられました。世に言う「芦田修正案」です。

「ポスト小泉」の一人、谷垣財務相は、福知山を含む京都5区の選出で、先代、故谷垣専一文部相は福知山のご出身です。
しかし、実は福知山出身の総理大臣は戦後まもなく1948年3月、すでに誕生しています。
それが、芦田均(あしだ ひとし 1887~1959)総理です。【上写真】
私は丹波・福知山で生まれ育ち小学校から高校までこの地で通いましたが、学校で芦田総理のことを聞かされたことは一度もありませんでした。
福知山から総理大臣が出ていたことを知ったのは、大学に入ってからです。
この週末は、現憲法の制定にも深くかかわったこの政治家についてお話ししようと思います。
それでは、続きはまた明晩。

丹波佐治兵衛の鏡開きは、なぜか1月20日でもなければ1月11日でもなく1月15日です。
なんでそうなったかは家人誰に聞いても定かでない。我が家だけかと思っていましたが、丹波は、やはり15日とおっしゃる方がおられるようです。
「鏡開き」は、元々1月20日に行われていましたが、将軍 徳川家光が20日(慶安四年四月)に亡くなったことから1月11日に変更され、現在に至っているそうです。
2000年を越えたあたりから、世の中のスピードがどんどん速くなっているような気がして、11日まで「鏡もち」を飾っておくのはちょっと間が抜けているように感じられます。
図らずも今年は「戌年」です。文字通り、人間の7倍のスピードで時が過ぎるという「Dog year」(ドッグイヤー)になるのでしょうか??